『ヒックとドラゴン』に学ぶ
ワケあって今年に入ってまだ映画を3~4本しか観ていない。年に最低でも5~60本は劇場で観ていたころに比べたら10分の1のペースだ。前に観たのが『告白』だから今回観たのは2ヶ月ぶりかな。 去年ここの日記に書いた『ポニョ』の映画批評が思いのほか好評だったらしく、未だに友達に会うと話題に上ったりして嬉しい限りだけど、「それじゃあ現在公開されている『狩りぐらしのアリエッティ』についてはどうなのよ?」という催促も少なからずあるわけで、それはまた別の機会にちゃんと書くのでもうしばらくお待ちください。 それよりも皆さん、ついに観ましたよ『ヒックとドラゴン』。
公開終了間際ということらしく最寄の映画館では午前中の一回のみの公開でした。このブログを読んでいる皆さん、こんなブログを読む暇があったら、とりあえず3D上映されている近くの映画館を探して時間を調べて観に行く予定を立ててください。珍しく、と言うか初めて結論から言います。最高です。いろんな意味で最高です。まずは【3D映画】として。次に、子供向けの【娯楽映画】として。そして、大人向けの【考えさせられる映画】として、最後に、ハリウッドのメインストリームにこのような映画がようやく登場したと言う【アメリカの価値観の変遷をうかがい知る映画】として。
【3D映画】としての『ヒックとドラゴン』
突如として到来した空前の3D映画ブームのおかげで今年に入ってからいろんな3D映画が公開された。『アバター』のように製作段階から3D映画として撮影されたものから『アリス』のようにブームに便乗して急遽3D化したものまであるけど、この映画は絶対に3Dで観るべき映画。『アバター』以降の3D映画は、ほとんどポストプロダクションの段階、つまり撮影後に3D処理されたものがほとんどで、3Dにする意図が汲み取れないものばかりだった。現在アメリカでは3D処理を施す映像処理の会社はどこも忙しいらしく、中には3D処理のうまい会社とそうでない会社とがあるんだけど、このブームのおかげでしばらくはどの会社も仕事に事欠かないようだ。と言うことは、当然3D処理がイマイチな映画もあるわけで、3D映画だからといってすぐに飛びついてはいけない。
現在公開されている3D映画で世間をにぎわせているのが『トイ・ストーリー3』だけど、これは典型的なポスプロ3D映画で、2Dで観てもなんら支障はない。むしろ『1』『2』の世界観を壊さぬよう、あえて当時の技術レベルに合わせて作ったパステル調のマットな質感を味わうためにも3Dメガネの暗い映像よりも肉眼で見る鮮やかな2Dの方が楽しめる。ちなみにこの映画の3D技術が低いと言うことはない。
一方この『ヒックとドラゴン』は3Dで観た方が楽しめる『アバター』以降初めての映画といってもいいかもしれない。見所はなんといってもドラゴンの飛行シーンで、本当にドラゴンに乗って飛んでいるような擬似飛行を体感できる。ドラゴンと戦うシーンも大迫力で本当の意味でのアクション映画だ。他にも3D映画としての見せ場はいくつも用意されているので、たったの数百円の追加料金で観られるのだから断然3Dをお勧めする。観るならIMAXシアターか少し前のほうの席に座って、なるべく視界の多くにスクリーンが入るようにしたほうが良い。
また3Dであることとは直接関係はないが、最近では定番となったタレント声優の起用をしなかったことを僕は大きく評価したい。タレント声優は漏れなく全員ヘタクソだ。作品の質を下げてまでタレント声優を採用する理由はひとつしかない。それは興行的に有利であると言うことだ。タレントを使えばそれだけでメディアへの露出が増える。そんな制作側・配給側の勝手な理由のために下手な声優のセリフを聴き続けなければならない観客の身にもなってほしい。その点、この映画はプロの声優さんが声を当てているので映画に集中できる。こういうところにこだわりを見せるあたりも、いかにドリームワークスがこの映画を大事にし、自信を持っているかをうかがい知ることができる。
【娯楽映画】としての『ヒックとドラゴン』
この映画は娯楽映画としても秀逸で、単純に観ていて楽しい。ストーリーは童話が元になっていて良くも悪くも王道中の王道だけど、それをありきたりな映画にしないところがハリウッドの底力。日本にはないアニメーションの凄み、映画文化の深みを思い知らされることになる。
舞台は遥か遠い海の彼方、バーク島のとある村。古い村だが家は常に新しく、なぜかといえば村の家畜を横取りしに来るドラゴンによって家は燃やされ破壊されてしまうので、その都度補修しているからだ。ドラゴンを倒すことこそが一人前と認められるバイキングの村だ。
バイキングのリーダー“ストイック”の息子“ヒック”は筋肉隆々の父に似ず非力で、とてもドラゴンと戦えるような子供ではなかった。ヒックに任された仕事と言えば武器の供給とメンテナンスくらい。腕力では加勢できないが、しかしヒックは知恵や技術には秀でている。ヒックは決して弱虫で臆病なのではなかった。ヒックの志は誰よりも高く、願わくば未だその姿を誰も見たことがないという最強のドラゴン「ナイト・フューリー」を討ち取ろうと密かに闘志を燃やしているのだった。武力第一の種族の中で適正能力が違う、ただそれだけのことだ。
もしヒックがのび太のように逃げ越しで他者(ドラえもん)に依存するような子供だったら、然も有りなん、な映画になっていたところだ。
ある日ヒックは怪我をして飛べなくなったドラゴンを発見する。しかしヒックはトドメをさすことができない。そればかりか戒めを解きドラゴンを助けてしまう。
「ドラゴンが殺されるのを怖がっているのが分った。自分を見ているような気がして、命を奪えなくなった」。
正しい。ヒックの発言は全く正しい。
やがてヒックはそのドラゴンにトゥースと名づけ心を通わせるようになる。そのシークエンスを丁寧に描くことでヒックとトゥースの初飛行シーンが感動的なものとなる。
一方そのころ村では若者がバイキングになるための訓練が行われていた。いやいやながらもそのメンバーに選ばれたヒックは、ドラゴンを力で制しようとするバイキングの教えに反してトゥースとの交流の中から覚えたドラゴンの習性や特徴を活かし手懐けてしまう。
そんなドラゴンたちを見てヒックは思う。「僕たちが習ったのと違う」
ヒックが目指したのはこれまでのようにドラゴンと敵対するのではなく、共生する道だった。弱々しい少年がこれまでのしきたりを打ち破り、伝統を覆す。大人がなかなか考えを変えられないのは、これまでの知識や経験に裏打ちされ思考が形成されているので、考えを変えることは自分の過去を否定することになるという拒絶反応が働くのに対して、子供は直感的で純粋だ。この構図は後半の大感動の布石になっている。
ドラゴンと戦うことを放棄し共生の道を探ろうとするヒックに対し、それでもドラゴンと戦おうとするストイックは「仲間が何百人も殺されたんだ!!」と言い放つが、ヒックは即座に「僕たちだって何千匹も殺しただろ!!」と言い返す。
やはりヒックは正しいのだった。
新たな発見、成長とともに、常識やルールをも一変させ世界を変える、そのスケールの大きさが心を打つ。
その他、ヒックをライバル視するツンデレの女戦士やドンくさいけどドラゴンに関する知識だけは誰にも負けない仲間など、それぞれにちゃんと活躍の場が用意され、子供だましではない、徹底的に練りこまれた脚本力を知ることとなる。企画や設定は面白いんだけど、脚本力がなく60点くらいの映画ばかりを量産する邦画界には見習ってほしいものだ。
ヒックとトゥースは、バイキングとドラゴンの関係を最終的にどう導くのか。そんなワケで、王道だけど前半にばら撒かれた伏線を後半にすべて回収し大感動へと導くストーリーは、それだけでも楽しる。
▲ドラゴンと[対峙]するストイック(上)と[共生]を目指すヒック(下) 【考えさせられる映画】としての『ヒックとドラゴン』
ヒックとトゥースは心を通わせて仲良くなったが、二人は単に精神的な結びつきでいつも一緒にいるわけではない。実はトゥースにはヒックがいなければ生きていけない事情があるのだ。そのことを理解しているヒックも自身のものづくりの才能を活かしトゥースを思いやる。バイキングとドラゴンの共生の世界を目指すのと同じように、ヒックとトゥースもお互い共生の関係にあるのだ。 そしてこの映画を単なる「いい映画」で終わらせずに傑作へと押し上げたのが定石を崩したラストシーンだろう。プロデューサーや幹部連中の間に波紋を起こし、意見収集試写会で議論を重ねた上で採用されたこのラストシーンは、「俺たちは、何事も予定調和で終わるディズニーやピクサーとは違うぞ」という、本質を真正面から見つめようとする意地を感じさせる。 そこまでやる必要があるのかという意見もあるが、ラストシーンでヒックが自分の状況を素直に受け入れ、むしろトゥースと同じ境遇になれたこと、本当の対等な関係になれたことを喜んでいるような表情こそがあの結末を肯定している証拠ではないか。 これでようやくヒックはトゥースに対しての責任を清算できるのであり、プラスナイナスゼロの関係になるのだ。そう考えるとこの映画の結末はあれ以外には考えられないのである。 それは何かを得るためには大事な何かを失わなければならないと言うような説教じみたものではなく、共生と言う口当たりのいい言葉の裏に隠された重い責任や覚悟、本当の意味での対等とはどういう意味なのかを我々は学ぶのだ。 子供のいる方で、もし子供にいい映画を観せたいと思うのなら、僕は迷わずこの映画をオススメする。小さい子供たちは、なにも理解していないようでいて意外と本物を感じ取る力がある。なるべくいいものを見せてやるのが親の務めというものだ。この時期、映画としての内容はこの映画と比肩するものの3Dとしての意味合いがない『トイ・ストーリー3』や、誰も傷つかないことが子供にとって健全だと本気で思い込んでいる『ポケモン』や、『アリエッティ』(後日、レビューを書きます)など、目移りする映画がいっぱいあるけど、何かひとつを選ぶなら正解はこの映画『ヒックとドラゴン』でした。
【アメリカの価値観の変遷をうかがい知る映画】としての『ヒックとドラゴン』
アメリカと言う国はかつて先住民族であるインディアンを女子供も容赦なく、ほぼ全滅に近い状況まで虐殺することによって、自国民への反乱勢力を完全に押さえ込んだ。ここで情けをかけ中途半端に残せばどんな禍根を残すか、彼らには最初からわかっていたのだ。かつて織田信長が宗教勢力を政治から一掃するために取った政策のように。 バイキングとドラゴンもお互いがお互いのことを何も知らないから傷つけあう。 殺しあってきた敵と、共生の道を探る。少年ヒックと最強のドラゴン・トゥースのコンビを架け橋に、両種族を平和へ導こうとする挑戦は、現実の国際政治が抱えるあらゆる紛争問題へのひとつの回答である。この映画が伝えるのは建国当時から続く「皆殺しによる平和」「敵を圧倒するアメリカ」の精神ではない。このような映画がメジャー映画としてアメリカで公開されることの意味は果てしなく大きい。 また、先に触れたストイックの「仲間が何百人も殺されたんだ!!」と言うセリフに対し、ヒックの「僕たちだって何千匹も殺しただろ!!」というやり取りは、そっくりそのままアメリカのイラク戦争開戦の大儀だし、9.11を起こしたテロリストの言い分でもある。 ドラゴンに理解を示すヒックと、ドラゴンを敵とみなす人々との確執。すべては誤解から始まり、失った信頼の回復の困難さに後悔し、後に引くきっかけを失ってしまう。これも現実の国際政治の映し鏡となっている。 また、ヒックのようにドラゴンと戦えないというだけで半人前扱いされるこのバイキングの社会は、一元的な評価基準でしか優劣を判断しない、まさに偏差値教育のようではないか。この映画は、現在のような混沌とした社会ではヒックのように腕力(偏差値)は低くても知恵(適応能力)や技術を持っている方が遥かに必要とされていることを暗に伝えているのだ。 僕は映画は単にストーリーだけを追っていれば良いと言うものではないと思っている。その裏にこめられた思い・願い・意図・メッセージを理解しなければその映画の半分以上を見逃していることになると知るべきだ。 この映画から何を学ぶのかは観る人それぞれの感性によるが、得るものの多い映画だと思う。 と、ここまでベタ褒めしてきたけど、引っかかる部分がないわけじゃない。ひとつは、最後に戦うことになるドラゴンとはなぜ共生の道を探る可能性を示さなかったのか。黒幕を消してしまえばすべて解決と言う考え方は、アメリカの傲慢さがそのまま露呈しているようで、観ていて決して気持ちのいいものではなかった。 もうひとつは、ヒックの最後のセリフでドラゴンのことを「ペット」と言い放つところ。これまでの流れでは、ここは「ともだち」か「なかま」が正解だろう。だけど、原文がいくら「pet」だからって日本語訳を当てるときにそのまま「ペット」とやってしまっては、あまりにも訳者の理解力がなさ過ぎる。原文の「pet」は、これはこれで正解だ。アメリカではこの言葉の中に“家族同然”とか“相棒”というニュアンスを含んでいるので、アメリカ人にとっては違和感はないはずだ。しかし日本語の「ペット」は愛玩用の動物という意味合いがまだ抜け切れていないので非常に違和感がある。最後の最後でいやな気持ちになるのは大きなマイナスだ。 というワケで、上記2点により-4点、3Dメガネで涙が拭いにくかったので-1点で95点。 現時点で2010年No.1!!