建築家とは何だ
カイザー・ヴィルヘルム教会は第二次世界大戦中に度重なる空襲によって甚大で壊滅的な被害を受けた。戦後、当時の西ベルリン市によってその改修の計画が持ち上がり、今では街のシンボルにもなっていて地元の人にとっては原風景ともいえる愛すべき建築だ。
改修計画は、改修案を公募してその中から選ばれた1作品が実際に建築されるっていう、いわゆる「コンペ形式」で設計者が選任された。 これほどの大ダメージを受けた建物だから建て替えるのが一般的な考え方かもしれないけど、採用されたのは「建物の保存案」だった。教会としての機能を失ったこの建物を保存する意味とは一体何なのか。 この教会が建っているのはドイツ・ベルリンの中心地、ツォー駅に程近い広場で、地元の人や観光客が終始行き交い、集う場所になっている。東京で言えば新宿コマ劇場前広場といったところだろうか。 この教会は人々の集まるところに存在することに意味があって、このような結果を招いた戦争と言う人類の悪しき習慣がいかに無意味で非生産的でネガティブな感情しか生み出さないということを、その醜態を、無残な姿を晒すことで訴えかけているのである。そのために「保存」という選択は必然だったのだ。ミサは隣に新しく建てられた青紫色のステンドグラスで作られた幻想的でモダンな礼拝堂で行われている。
建築家にとって、そこに何を建築するのかと言うことはもちろん重要なんだけど、同時に「なぜ建築するのか」ということもそれ以上に重要だ。この例で言うと「平和祈念」が「なぜ建築するのか」の回答となっているワケだ。 日本には建築士の資格制度はあっても建築家の資格制度はない。だから建築家であるかそうでないかの違いは、この「なぜ」にどのような回答をするかと言うその作家性の有無によっている。まぁ定義なんてものは実際にはないんだけど少なくとも僕はそう思ってる。 だから建築士であっても職能倫理が欠如していれば、手抜き工事をするし耐震偽装をする。同じ建築士でもおかしいのがいっぱいいるから我々の職業が理解されにくくなってるのかもしれない。 僕がカイザー・ヴィルヘルム教会を美しいと思ったのは、平和のシンボルであるこの教会が日常の風景に溶け込んでいたからだ。このような優れた作家性を持っているのが建築家だ。 だからこのような建築家になる為に今僕に出来ることは、なぜ建築するのかということを常に考えて 社会的価値の高い建築を創出することだ。いい建築に出会うと、いつもこういう刺激を与えてくれるので、いつか一年くらいかけてゆっくり世界旅行をしたいものだ。